アートだからって何。

 アートなんて難しく考える必要はないですよというお話を。

「好きになった」メモ:「こんなものはアートじゃない」と言う前に
http://hisamichi58.blogspot.com/2008/02/blog-post.html

  • 展示会場の一角に、何日もエサを与えていない餓死寸前の犬をつなぎ、その犬が餓死して行く様子を人々に見せるというもので、これが「芸術」
  • 展覧会に餓死寸前の犬をつなぐ「アーティスト」に「こんなものはアートじゃない」と指摘するのはナンセンス
  • それなら聞こうアートとは何か、と逆に問われて 「犬かわいそう」派がまともに答えられるとは思えない
  • 「こんなものはアートじゃない」という物言いが不毛なのは、アートに決まった定義がないからです 

 まあ確かにアートに定義は無い。というか20世紀になってからというもの、アートを定義してみるとその直後にそれを覆すアートを目指す人が必ず出てくる。 「美しさを表現するもの」と定義すると、醜く汚いものをアートとして掲げてくる、みたいな。
 こういう「何を以って芸術とするか」が難解になった契機としてマルセル・デュシャンの『泉』(1917年制作)は外せないでしょう。

マルセル・デュシャン
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%BB%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%A5%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%B3

  • こうしたエピソードはいかにデュシャンが、美術の枠を外そうとし、また拒否反応があったかという点を示している。

『泉』(画像検索)
http://images.google.com/images?hl=ja&rls=SUNA,SUNA:2005-51,SUNA:ja&q=%E3%83%87%E3%83%A5%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%80%80%E6%

B3%89&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

 『泉』論は世の中にまあ色々あるのここでは略。 ただ、とりあえずアートについて考えるなら覚えておいていい作品です。 美どころか、芸なのか術なのかすら怪しくなってきます。ますますもって「アートとは何か」がわからなくなる。


 しかしまあ「定義」をカッチリするのは難しくても、「アートとやらの正体をザックリと把握する」ことはそれほど難しくなくて、
平たく言うと「思惑」と「揺さぶり」です。
 まず作者が「何かを」しようと「思って」、「何かを」する。 
 そして、それにより受け手が感動なり笑いなり涙なり怒りなりといった何かを「感じ」、"おっ"とか"むっ"とか"ほほう"とか「思う」。


 基本的にはこれだけで「アート」です。
 正確に言うと、この「思惑」と「揺さぶり」が主軸になっているものがアート。 だから「揺さぶり」が最終目的でない仕事とか料理とか政治とかは基本的にアートとは呼べないし、「揺さぶり」の元が「思惑」ではない愛とか憎しみの場合もアートとは言わない。 この辺、微細なツッコミはなしで(笑)
 


 もうひとつ、アートについての話題をややこしくしているものに、芸術とか美とかは崇高であるという「錯覚」がありますね。

フリュネ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%A5%E3%83%8D

  • エレウシスの秘儀を冒涜した罪でフリュネは訴えられた。フリュネを弁護したのは、フリュネの愛人の1人、雄弁家のヒュペレイデス(en:Hypereides)だった。しかし形勢は不利で、ヒュペレイデスはいきなりフリュネのローブを引き裂いて、その乳房を露わにした。それでフリュネは無罪となった。一説には、フリュネが自ら着ているものを脱いだとも言われている。裁判官の心変わりは、単純に彼女の美しいヌードに圧倒されたからではなく、その時代、肉体の美は神性の一面・神聖なしるしと見なされたからだった。

 「真・善・美」が一体だというのは、確かにそういうものもそれなりに存在するけれどもそうでないものもそれなりに存在するわけで、悪の美学ってのもあるし汚ねぇ真実もある。 「芸術は人間の内面の真実の発露」ってのもそうで、小はそこらへんのアーチスト気取りから、大は○○党の党首やら○○教の教祖(←なんか適当にお嫌いな団体を入れてください)まで、そういうの見ると、発露してりゃ偉いのかというと別にそういう訳でもないと判ると思います。
 つまりアートって、その程度のものが結構あるんですよ。
 それでも技術力があるなり構成に綿密さや計算があるなら「ほほう」とも思うんですが。 しかし現代アートとやらになってただの一発ネタ合戦のようなものも増えてきて、しかもレディ・メイドという手法ではデュシャンの「揺さぶり力」に勝るものはほとんど無い。 
 件の犬とアーチストに関して言えば「目の前で生命が死ぬ(死にかける)」なんてのはアートじゃなくても「揺さぶられる」んであって、つまりアーチストには大した「揺さぶり力」は無い。 ヒサミチさんの使ったキーワードを使わせてもらえば「この挑発は表現の質が低い」といったところでしょうか。



まとめると

  • アートなんてのは突き詰めると「思惑」と「揺さぶり」という骨格になる
  • 「思惑」と「揺さぶり」だけなんだから、必ずしも「真」や「善」「美」は付随しない

こんなかんじ。 シンプルでしょ? この程度でいいんですよ。



【おまけ】
学生の頃に描いた油絵を引っ張り出してみた

ま、私も「思惑」と「揺さぶり」にどっぷりハマってた時期があったのよ。